「由紀さおりさんって、実は結婚してたの?」そんな声がネットでもちらほら聞こえてきます。実は由紀さおりさんには、過去に2度の結婚歴があるんです。1人目の夫は音楽プロデューサーの大森昭男さん、そして2人目は実業家の柴冨哲也さん。どちらの結婚も華やかさの裏でいろんな思いや出来事があったようで…。おふたりとの間に子どもはいたのか、なぜ離婚という選択に至ったのか
今回は、由紀さおりさんの私生活に少しだけ踏み込んでみたいと思います。
目次
由紀さおりに夫はいない!?
由紀さおりさんの夫について気になって調べてみた方、きっと少なくないのではないでしょうか。2025年現在、由紀さおりさんには配偶者はいません。でも実は、これまでに2度の結婚を経験しているんですよ。最初の結婚相手は音楽プロデューサーとして知られる大森昭男さん。そして2人目の夫は実業家の柴冨哲也さんでした。いずれの結婚にも、それぞれの出会いと別れのドラマがあり、子どもについての話や離婚の理由も含めて、由紀さおりさんの人生に深く関わっていたんです。そんな由紀さおりさんの結婚歴や夫との関係について、あらためて丁寧に紐解いてみたいと思います。
由紀さおりの結婚歴は2回
由紀さおりさんには、これまでに二度の結婚と離婚の経験があるんです。華やかなステージの裏側で、実は私生活でもさまざまな決断を重ねてきたんですね。歌手として長年愛され続けている由紀さおりさんですが、その人生は決して順風満帆だったわけではありません。だからこそ、多くの人が由紀さおりさんの結婚歴やお相手との関係に興味を持つのも無理はないはずです。今回は、その知られざるエピソードをひとつずつ丁寧に紐解いていきたいと思います。
1人目の夫は大森昭男
由紀さおりさんが最初に結婚を経験したのは、1969年のことでした。お相手は音楽プロデューサーとして知られる大森昭男さん。実はこの年、由紀さおりさんにとっては人生の大きな転機がいくつも重なった時期だったんです。というのも、デビュー曲となった夜明けのスキャットが大ヒットしたのも、まさにこの1969年。同じタイミングで結婚とブレイクという出来事が訪れたことで、嬉しさと戸惑いの入り混じる、複雑なスタートだったのではないでしょうか。
大森昭男さんとの出会いは、中学生の頃にまでさかのぼります。当時、由紀さおりさんはCMソングの収録でスタジオに通っていて、そこで出会ったのが音楽ディレクターとして活躍していた大森昭男さんでした。大森昭男さんは、まだ無名だった由紀さおりさんの中に光る才能を見つけ、歌手としての方向性を導いてくれた存在だったんです。そんな運命的な出会いが、のちに結婚へと結びついたというのも、まさにドラマのような話ですよね。
大森昭男さんは、1936年生まれの音楽プロデューサーで、日本のCM音楽の歴史を語るうえで欠かせない人物のひとりです。1964年には桜井順さんとともにブレーンJACKを設立し、資生堂のCMなどで数々の名作を世に送り出してきました。特に音楽と映像の融合に力を注ぎ、CM音楽が単なる宣伝ツールではなく、文化としての価値を持つものへと押し上げた功績は、今も多くの音楽関係者から高く評価されています。
1970年代には、ON・アソシエイツ音楽出版を立ち上げ、山下達郎さんや大瀧詠一さんといった錚々たるアーティストたちとも早くから関わっていたんです。資生堂の君の瞳は10000ボルトや三ツ矢サイダーのCMソングなど、誰もが耳にしたことのある楽曲の多くに、大森昭男さんの手腕が光っているんですよ。
そんな偉大な音楽人との結婚だっただけに、由紀さおりさんの音楽活動とも密接に結びついていたことは間違いありません。でも、同じ世界に身を置くからこそ、きっとすれ違いや葛藤もあったはずです。結婚生活は長くは続かず、のちに離婚という道を選ぶことになりましたが、由紀さおりさんの原点には、間違いなく大森昭男さんとの出会いと影響が深く刻まれているように感じます。
彼女の音楽人生において、この最初の結婚は避けては通れない大切なエピソード。まさに、歌と人生が重なり合う瞬間だったんですね。
大森昭男との子供は?
由紀さおりさんと大森昭男さんの結婚には、たくさんのエピソードが詰まっているんですよ。1969年、短大を卒業してすぐに大森昭男さんとの結婚を決意した由紀さおりさん。当時まだ20歳という若さでしたが、すでに音楽の道を歩み始めていた時期でもありました。そのため、この結婚は彼女の音楽活動にも少なからず影響を与えることになったようです。
しかし、ふたりの結婚生活にはいくつかの壁もあったんです。なかでも大きかったのが、由紀さおりさんの父親の反対。家族からの強い反発を受けながらも、大森昭男さんとの関係を貫いた姿には、若き日の由紀さおりさんの覚悟と芯の強さが感じられますね。
そんなふたりの間に、子どもはいなかったことが確認されています。その理由については明言されていませんが、考えられる背景はいくつかあります。
ひとつは、音楽という共通の世界で生きていたふたりにとって、仕事の比重がとても大きかったということ。大森昭男さんはCM音楽の世界で名を馳せたプロデューサーで、常に多忙な日々を送っていたことで知られています。資生堂や三ツ矢サイダーなど、日本中に影響を与えたCMソングの数々を手がけていたほどの人物です。その裏側では、時間も心も音楽に費やしていたのではないでしょうか。
また、由紀さおりさん自身も、デビュー曲の夜明けのスキャットが大ヒットした直後から一気に忙しくなり、歌手としてのキャリアが本格化していきます。そんなタイミングで家庭と両立することは、想像以上に難しかったはずです。もしかすると、子どもを持つという選択よりも、まずはそれぞれの夢を優先した結果だったのかもしれませんね。
結果として、由紀さおりさんと大森昭男さんは離婚という道を選びましたが、互いの人生に深く関わり合った存在であったことに変わりはありません。子どもがいなかったからこそ、それぞれの仕事と向き合う時間が濃密で、互いに与え合う影響も大きかったのでは…と感じさせられます。
人生の選択には、正解も間違いもありません。由紀さおりさんと大森昭男さんの関係は、まさに音楽と生き方が交差する、深くて静かな愛のかたちだったのかもしれません。
大森昭男との離婚理由
由紀さおりさんと大森昭男さんの結婚生活は、最初こそ穏やかで順調な日々だったようです。由紀さおりさんは当初、音楽活動を少しセーブしながら家庭の時間を大切にしていたそうなんですね。まだ20歳という若さで結婚した由紀さおりさんにとっては、家庭と向き合う日々もまた、新たな経験だったのかもしれません。
でも、やがて転機が訪れます。夜明けのスキャットが大ヒットし、由紀さおりさんの歌手としての道が本格的に動き出すと、生活のリズムは大きく変わっていきました。次第に歌番組やコンサート、レコーディングなど、音楽の仕事が増えていき、彼女はますます多忙に。一方で、大森昭男さんは「一緒に家庭を築いていく」というスタイルを大切にしていたようです。
このすれ違いが、ふたりの関係に少しずつ影を落としていったんです。由紀さおりさんは、自分の可能性をもっと広げたいという思いを胸に前進し続けました。でも、そうした日々の中で、夫婦の会話や共有する時間は少なくなり、次第に心の距離も生まれてしまったのかもしれませんね。
1976年には別居という形を選ばざるを得なくなり、その状態が長く続くことに。この別居期間は、由紀さおりさんにとっても決して楽なものではなかったようです。表舞台では笑顔で歌い続けながらも、心のどこかで寂しさや葛藤を抱えていたのかもしれません。
そして1983年、ふたりは正式に離婚という決断を下します。夢を追い続ける由紀さおりさんと、家庭に温もりを求めた大森昭男さん。どちらも間違っていたわけではなく、それぞれの価値観が交わらなかっただけなんですよね。互いに大切にしているものが違っていたからこそ、離れて歩く選択が最善だったのかもしれません。
この離婚を経て、由紀さおりさんはさらに音楽の道を深めていくことになります。決して平坦ではなかったその道のりが、今の魅力あふれる表現力につながっているんだと思います。人生の中で何を選ぶのか?その答えは、きっと一つじゃないんですよね。
2人目の夫は柴冨哲也
由紀さおりさんが人生で二度目の結婚を迎えたのは、52歳のときでした。お相手は、アメリカを拠点に活躍していた実業家・柴冨哲也さん。由紀さおりさんにとってこの再婚は、大きな転機となったんです。当時、子宮の全摘出手術を終えたばかりだった由紀さおりさんにとって、結婚という選択は、女としての自信を取り戻すひとつのきっかけになったといいます。
ただ、この結婚は少し特別な形でした。実は、日本では婚姻届を提出しない“事実婚”というスタイルをとっていたんです。柴冨哲也さんはアメリカのグリーンカード保持者だったことから、法律上の結婚はアメリカで成立していました。国や文化の違いがあったことで、ふたりの関係には最初から独特な距離感があったのかもしれませんね。
遠距離婚という環境も、決して楽なものではありませんでした。仕事で多忙な日々を送る由紀さおりさんと、海外に拠点を置く柴冨哲也さん。ふたりの間には、物理的な距離以上に、気持ちのすれ違いやコミュニケーションの難しさがあったようです。最初は情熱的だった関係も、少しずつ無理が積み重なっていったのかもしれません。
2006年、ふたりは静かに別れを選びます。二度目の離婚は、由紀さおりさんにとってまたひとつの試練だったはず。でも、そこから前を向いて歩き出す姿は、とても潔くて、由紀さおりさんらしい生き方だと感じさせられます。
ちなみに、柴冨哲也さんは1947年生まれで、2025年現在は77歳から78歳。ジェネシスピュアジャパンの代表取締役を務めていたこともあり、インターネットビジネスの世界で先駆的な存在だった人物です。さらに、音楽プロデュースやディストリビューターとしても活動していた経歴があり、多彩な顔を持つ実業家なんですよ。
離婚後、柴冨哲也さんは再婚し、若い妻・ゆきこさんとの間に子どもも誕生しています。しかし、その妻は2019年に体調を崩し、わずか数年で亡くなってしまったそうです。現在はマレーシア・クアラルンプールで暮らしており、ネットワークビジネスの分野で活動を続けているといわれています。
異国の地で愛を育み、そして別れを選んだ由紀さおりさんと柴冨哲也さん。形は違えど、それぞれの人生に確かに交差した時期がありました。由紀さおりさんにとってこの再婚は、ただの恋愛ではなく、自分を見つめ直し、新たな一歩を踏み出すための大切な時間だったのかもしれませんね。
柴冨哲也との子供は?
由紀さおりさんと柴冨哲也さんとの間には、お子さんはいないことが確認されています。これは、由紀さおりさん自身の体の事情とも深く関係しているんです。
由紀さおりさんは1992年頃、子宮筋腫や子宮内膜症を患い、41歳で子宮を全摘出するという大きな手術を受けました。この決断には、当時の健康状態だけでなく、女性としての葛藤もあったのではないでしょうか。この手術によって、由紀さおりさんは母親になるという道を閉ざされることになりました。
その後に始まった柴冨哲也さんとの結婚生活も、ふたりのあいだに子どもをもうけることはありませんでした。でも、だからこそ由紀さおりさんは、歌手という道により一層の想いを込めて歩んできたのだと思います。ひとつの選択が別の道を照らすこともあるんですよね。
由紀さおりさんはあるインタビューの中で、結婚生活を振り返りながら「結局、妻にも母にもなれなかった」と語ったことがあるそうです。でも、その言葉には後悔の色はなく、むしろ清々しささえ感じられます。なぜなら、由紀さおりさんは人生を歌に捧げ、その歌声で多くの人の心を癒してきたからです。
ファンからの温かな応援を何よりも大切にしてきた由紀さおりさん。母にはならなかったかもしれませんが、歌を通して多くの人に寄り添い、励まし、そして包み込んできた存在だと言えるのではないでしょうか。そこには、母性にも似た深い優しさと強さが込められているように感じます。
柴冨哲也との離婚理由
由紀さおりさんと柴冨哲也さんの結婚生活は、2006年まで続きました。再婚当初はお互いに強く惹かれ合い、まるで人生の第二章が始まったかのような情熱的な時間だったそうです。由紀さおりさんにとって、この再婚はただの恋愛ではなく、長い芸能生活の中で失いかけていた“女性としての自信”を取り戻すきっかけでもありました。
しかし、理想と現実は、いつも同じようには進まないものなんですよね。ふたりの結婚は、アメリカと日本をまたぐ遠距離婚という形だったため、最初から物理的な距離が存在していました。それだけでなく、生活スタイルや文化の違い、すれ違いの日々が重なり、少しずつ心の距離も広がっていったようです。
とくに由紀さおりさんは、歌手としての活動が再び多忙になり、国内外のステージに立ち続ける日々が続いていました。一方で、柴冨哲也さんはアメリカを拠点にビジネスを展開していたため、ふたりが同じ時間を共有する機会はどうしても限られてしまったのです。
遠距離という環境に、気づけばふたりの関係は静かに、しかし確実に蝕まれていったのかもしれません。連絡の頻度が減り、心の中のすれ違いが積もり、やがて修復が難しいものになってしまった。そんな背景が、離婚という決断につながったと考えられています。
もちろん、由紀さおりさんにとって二度目の離婚は決して軽い出来事ではなかったはずです。でも、その経験もまた、彼女の人生をさらに深める糧になっているんですよね。インタビューなどでも、由紀さおりさんは過去を悔やむのではなく、すべてを受け入れたうえで、前を向いて歩くという姿勢を貫いています。
離れてしまったからといって、その時間に意味がなかったわけではない。そんなふうに思わせてくれる由紀さおりさんの生き方には、やっぱり心を打たれてしまいますね。
由紀さおりのプロフィール
由紀さおりさんは、そのやわらかな歌声と品のある佇まいに、心を癒されたという方も多いのではないでしょうか。1946年11月13日、群馬県桐生市に生まれた由紀さおりさん。本名は安田章子さんといいます。幼少期から音楽の世界に身を置き、実のお姉さんである安田祥子さんと共に童謡歌手としてのキャリアをスタートさせました。
1965年には安田章子名義で歌謡曲デビューを果たしますが、当初はヒットには恵まれませんでした。ですが、1969年に由紀さおりという新たな名前で再出発すると、運命を大きく変えることになります。同年にリリースされた「夜明けのスキャット」が爆発的にヒットし、150万枚を超えるセールスを記録。一気にその名が全国に広まりました。
続く1970年には「手紙」が6週連続で1位を獲得し、日本レコード大賞・歌唱賞を受賞。以降も「生きがい」「故郷」など、多くの名曲を世に送り出し、日本の音楽シーンに欠かせない存在となっていきます。
また、由紀さおりさんの魅力は音楽だけにとどまりません。女優としても高い評価を受けており、1983年には映画『家族ゲーム』での演技が評価され、日本アカデミー賞 優秀助演女優賞を受賞。以降も数々のテレビドラマや映画に出演し、幅広い表現力で多くのファンを魅了し続けています。
音楽面では、近年、海外の音楽グループ「ピンク・マルティーニ」とのコラボレーションが大きな話題に。ジャズをベースとした楽曲で、iTunesのジャズ・チャート1位を獲得するなど、世界中のリスナーにもその歌声が届いています。
こうした功績が認められ、2012年には岩谷時子賞を受賞。さらに2019年には旭日小綬章を受章するなど、日本文化への長年の貢献が高く評価されています。そして2024年には松尾芸能賞 特別賞の受賞も予定されており、その実績と存在感は今なお輝きを増しています。
私生活では、1969年に音楽ディレクターの大森昭男さんと結婚するも離婚。さらに実業家の柴冨哲也さんとの再婚も経験されましたが、こちらも遠距離生活を経て2006年に離婚。子どもには恵まれなかったものの、由紀さおりさんは「妻にも母にもなれなかったけれど、歌で多くの人に寄り添えた」と語り、今もなお、歌手としてステージに立ち続けています。
洗足学園第一高等学校を卒業後、洗足学園短期大学英文科を修了。由紀さおりという芸名は、母親が名付けたもので、その名前に込められた想いは今でも心の中に大切に残されているそうです。
長年にわたり、日本の音楽と芸能界に貢献し続けてきた由紀さおりさん。その温かな歌声と確かな表現力は、これからも世代を超えて愛されていくことでしょう。
由紀さおりは病気?
由紀さおりさんは、華やかな表舞台の裏で、いくつもの大きな健康上の試練と向き合ってきました。とくに1980年代に発覚した子宮筋腫は、彼女の人生とキャリアに深く影響を与える出来事だったんです。
37歳の頃、由紀さおりさんは突然の激痛に襲われ、青山一丁目の横断歩道で動けなくなってしまったことがあったそうです。そのときに駆け込んだのが近くの山王病院。そこで診断されたのが、子宮筋腫でした。この病気は放置できるようなものではなく、その後5年の間に子宮内膜症も併発し、1ヶ月のうち半分は強い痛みに苦しむ日々が続いたといいます。
このままでは心も体も限界を迎えてしまう思いから、由紀さおりさんは41歳のときに子宮の全摘出手術を受ける決断を下しました。この選択は、単なる治療というだけでなく、女性としてのアイデンティティとも向き合う、とても重いものでした。それでも、彼女は手術を経て、「新たな気持ちで前を向けるようになった」と語っていて、その言葉には深い覚悟と、優しさが滲んでいます。
この経験を経てからの由紀さおりさんの歌には、それまで以上に深みが加わったように感じられます。身体的な痛みや心の葛藤を知っているからこそ、彼女の歌には言葉にできないあたたかさや包容力が宿っているのかもしれません。
また、由紀さおりさんは自分自身の体験を活かし、まわりの人たちの健康にも心を寄せてきました。親しい存在である市川由紀乃さんが卵巣がんと闘っていたときには、由紀さおりさんが健康管理のアドバイスを行い、精神的にも大きな支えとなったんです。市川由紀乃さんは、由紀さおりさんのことを「命の恩人」とまで語っていて、その絆の深さがうかがえます。
手術後には再婚という新たなステージも経験しましたが、その関係も数年で終わりを迎えることになりました。それでも、由紀さおりさんは過去を悔やむことなく、すべての経験を糧にして歩み続けています。人生の痛みや迷いを知っているからこそ、彼女の歌は聴く人の心に深く届くのではないでしょうか。
歌うことで命の重みを伝え、聴く人の心にそっと寄り添う。それが、由紀さおりさんという人の強さであり、やさしさなんですね。
由紀さおりの現在と今後
2025年も、由紀さおりさんの勢いは止まりません。長年にわたって日本の音楽シーンを支えてきた由紀さおりさんですが、今年も全国各地でのコンサートに加え、新たなアルバムリリース、そして海外公演まで予定されているんです。
まず大注目なのが、音楽生活55周年を記念した特別コンサート「新しいわたし」。2025年4月9日、東京国際フォーラム・ホールCで開催されるこのステージは、由紀さおりさんが新たな表現に挑む節目のイベントとして、多くのファンが期待を寄せています。そしてその数日後、4月13日には大阪・新歌舞伎座でも同様の記念公演が予定されており、関西のファンにとっても見逃せない一夜となりそうですね。
さらに、夏には華やかなディナーショーも控えています。2025年8月11日、東京・帝国ホテルで行われるこのステージでは、ジャズをテーマにした上質な音楽が披露される予定で、まさに大人のための贅沢な一夜になること間違いなしです。
また、5月28日には、待望のニューアルバム『SHOW(昭)TIME!』のリリースも決定!昭和100年を記念し、昭和初期の名曲を現代風にアレンジしたこの作品は、由紀さおりさんの新たな魅力が詰まった一枚。懐かしさと新しさが見事に融合した、まさに“今の由紀さおり”を感じられるアルバムとなっています。
このほか、パリ公演をはじめとする国際的な活動も予定されており、日本だけでなく世界に向けてその歌声を届けようとしている姿勢に、改めて感動させられます。
国内では、6月に千葉・ホテル日航成田でのディナーコンサートも開催され、松阪ゆうきさんがゲスト出演する予定です。おいしい料理と心に響く音楽を一緒に楽しめる、とても特別なひとときになりそうですね。
そして11月には、長野市芸術館での『昭和歌謡際』にも出演予定。このイベントでは、他の著名アーティストたちとともに昭和の名曲を振り返るステージが繰り広げられます。昭和を知る世代にとっては懐かしく、若い世代には新鮮に響くステージになることでしょう。
2025年の由紀さおりさんは、まさに“音楽で時代を超える存在”。コンサートに、アルバムに、海外での挑戦に、ますます目が離せない一年になりそうです。これからも、変わらぬ優しさと深みを持ったその歌声が、多くの人の心に届き続けていくはずです。
まとめ
■ 由紀さおりの結婚歴・夫について
現在(2025年)、配偶者はいない
2度の結婚歴あり:
1人目:音楽プロデューサー・大森昭男(1969年に結婚、1983年に離婚)
2人目:実業家・柴冨哲也(事実婚、2006年に離婚)
■ 1人目の夫・大森昭男との関係
出会いは中学生時代、CMソング収録がきっかけ
大森はCM音楽界の重鎮で、資生堂や三ツ矢サイダーの音楽も手がけた
結婚当時は由紀さおりの「夜明けのスキャット」がヒット
子どもはいない(理由は多忙・キャリア優先・父親の反対など)
離婚理由:仕事によるすれ違い、別居後1983年に離婚
■ 2人目の夫・柴冨哲也との関係
52歳で再婚(事実婚)、アメリカで法律婚
再婚のきっかけは子宮全摘出後の再出発
遠距離婚でコミュニケーションに壁があった
子どもはいない(子宮摘出による)
2006年に離婚、原因は距離・生活スタイルの違いなど
■ 柴冨哲也の現在
1947年生まれ、実業家・音楽関連の活動も
現在はマレーシア在住でネットワークビジネスに従事
再婚し、若い妻との間に子をもうけるも、妻は病気で他界
■ 由紀さおりの健康と病歴
37歳の時に子宮筋腫を患い、41歳で子宮全摘出手術
手術後の人生や活動に大きな影響
市川由紀乃の闘病時にも支援、「命の恩人」と呼ばれる
■ 由紀さおりの現在と今後(2025年)
音楽活動55周年記念コンサート開催(東京・大阪)
8月:帝国ホテルでジャズディナーショー開催
5月:新アルバム『SHOW(昭)TIME!』リリース
パリ公演を含む海外活動も予定
11月:『昭和歌謡際』(長野)出演予定
■ プロフィール
本名:安田章子、1946年11月13日 群馬県生まれ
姉・安田祥子と童謡歌手として活動開始
「夜明けのスキャット」で大ブレイク(1969年)
女優としても活躍し、日本アカデミー賞受賞歴あり
ピンク・マルティーニとの共演で世界的評価も獲得
2012年:岩谷時子賞、2019年:旭日小綬章を受章
2024年:松尾芸能賞 特別賞を受賞予定